2015年8月26日

新宿伊勢丹初のクラウドファンディング

2015年8月26日

新宿伊勢丹初のクラウドファンディング
この話が来たのは、那須に旅行中、イギリスの田舎にありそうな素敵な教会を探索しているときだった。
バンタン時代の同級生Moritoから電話が来て、伊勢丹初のクラウドファンディングをMakuakeがやるということで、トリプルコラボ的にバンタンが関係
するということで、うちのブランドを紹介していただいた。伊勢丹新宿は他でもない、僕が日本で圧倒的にダントツ好きな百貨店である。
そんな場所で自分のお店を出せるなんて夢のようという感じでした。しかもプロが、うちの世界観に合わせて、壁などを装飾してくれるという最高の待遇だ。
うちはというと、今回はクラウドファンディングなので、リターンとして商品を出すことになっていた。クラウドファンディングなのに実際に見ることができるというタイプの物は5年前の当時は結構珍しかった。新宿伊勢丹のうちのスペースで実物を見て、試着して、ネットで買うという方法だった。
結構な長期間で、角の1ラックしかない場所だったので、毎日行くのは非常にしんどかった。

しかし、新宿伊勢丹の裏側も知ることができて、来店するお客さんの雰囲気も知ることができて、大きな収穫となった。
何よりこの1年半後にポップアップショップとして大々的に新宿伊勢丹で開催することになるのだが、その前に慣れておけてよかった。
自分が、最高級なものを経験していないと、自分も相応の価値を提供することはできない。だから、いくらお金がなくたってフレンチは行くし、新宿伊勢丹で買い物をするし、自分の好きな代官山にあるセレクトショップLiftでも、1着50万する服でも触るし、いくら身分不相応だっていい。

それを知っているから、そこまで行けるし、それを提供できる。自分も学生時代から、毎日バイトで働いて、全て高級な服に費やしてきた。アレキサンダーマックイーンなどラグジュアリーブランドでもファミリーセールの時にまとめて20万円くらい買っていた。かなり安くなってるので元はとんでもない値段だったりするが。元10万円のtシャツを3万円で買っていた。

前の記事でも書いたが、「同じものなら安く買う」「良いものでも安く買えるなら安く買う」ことで、自分は身分不相応だったとしても、高級な服を沢山買って、着て、肌身で体感してきたから、高い服でも作ることができる。もちろん高い服を作る、クオリティの高いブランドで働き、一流の服作りを身に着けたから、高級な服でも作ることができるということでもある。

自分のような叩き上げのデザイナーは珍しいが、自分が成功することで、同じような立場の若者を勇気づけたいと思う。

2015年6月10日

初の百貨店でのポップアップショップ

2015年6月10日
4月の展示会から二か月後の開催となった初のポップアップショップ
4月の展示会で、静岡松坂屋の矢島さんにお声がけいただいときに、割と即答した。
ポップアップショップは自分が勤めていたブランドでもラフォーレ原宿の一階入り口でやったことがあった。
声をかけてもらうまでは、とにかくセレクトショップに置いてもらうことしか考えてなかった。しかし、売らないと、売り上げを作らないと会社を、ブランドを経営、継続していくことはできない。だから売れる場所ができた。それだけでも嬉しかったし、自分の考えてもなかった新しいことに挑戦するということに単純に楽しみになっていたのだ。

そして話を進めていくと、売り上げ目標が150万円ということになり、そして在庫数はその三倍用意する必要があると言われた。
この常識は全く知らなかったものだった。この理由はどの商品が偏って売れても、最終日まで全部のデザイン、型が店頭に出ている状態を保てるという手法である。そう説明されたわけではないが、自分で考えてそう解釈した。

150万円分の商品がそもそもない。それを三倍作るなんて、ものすごいリスクだし、原価もものすごいかかる。この在庫を作るからには残った在庫は必ずどこかで売らないといけない。ということはこれを決断した時点でポップアップショップを継続的にやっていくということは決まってしまったようなものだった。

どんな波だってまず飛び込んでみる。そしてどうにかして乗りこなせるように、頑張る。そんな感じの考え方だった。
ポップアップショップを一回やって、継続しないブランドが多いのは在庫を作るリスクが一番の理由だ。
ハイリスクハイリターンというが、やはりしっかりと利益を出すにはある程度のリスクを取らないといけない。しかし、それも工夫次第だ。取ったリスクもあとからリスクでなくなるような工夫が考えられればよい。

6月の開催に向けて、確実に結果を出すために、事前に現場をリサーチする必要があると思い、静岡松坂屋へ行った。正直に言うと、ものすごいショックをうけた。
今まで同世代としか関わったことのなかった自分的には衝撃だったのだが、百貨店内を歩く60代以上の方がほとんどだった。
この方たちに売るのかと。うちの服が受け入れられるわけがないと思ってしまったのだった。特に今からでは想像がつかないと思われるが、当時はかなり短いミニスカート的なものも出していたくらいで、メンズもレディスも細い形がほとんど、見るからに若い感じのデザインになっていたのだった。

これらの服が売れるわけがないと思い、スカートはまず膝より下の丈にし、カットソーの形も襟ぐりをせまくしたり、袖丈、身幅を広くしたり、今あるデザインを少しでも着やすい形にしようと思って大幅に修正を加え、それを450万円分も作ったのだった。売れる保証は全くない。大きな賭けだった。

しかし、どこかで、良いものは年代世代時代を問わず評価されるはずという思いがあった。普遍的なものを作っていくという考えがあった。
このポップアップショップが始まる前に2015AWの撮影をしていて、そのテーマは凩-kogarashi-というかなり渋いものを作っていたので、こういった変化にも対応できたのだと思う。

■ポップアップショップ前日の設営ではお客様の流れを意識して、ハンガーラックの位置を何度も入れ替えて、あーでもない、こーでもないとこだわっていました。
初のポップアップショップでしたが、壁に貼る大きなポスターや、天井から墨染めの布を垂らしたりなど、(後になってから、ここまで頑張って協力してくれる百貨店はあまりないことを知る)かなりこだわって装飾していただいた。

ポップアップショップ初日。お店で、完全にフリーのお客さんに現物を販売したのはこれが初めてだった。
一階正面入口の目の前のかなり大きなスペースでやったので、かなり大勢のお客様が観て下さり、とても嬉しかったのを覚えている。
この時沢山売ってくれたのがReiだ。彼女は最初のころは店頭に立ち販売を頑張ってくれた。未経験にもかかわらず、ものすごい勢いで売っていた。

自分はこれまでの展示会などで同世代の方々には沢山売ってきて販売をそこまで苦に思ったことなかったが、ミセス相手の接客はどうしていいかわからず、最初はかなり苦労した。そしてミセスのお客さんは悪気なく、商品に対しての指摘をバンバンしてくる。

デザイナーであり、作った本人であり、そういうミセスに対する耐性のなかった自分は少し傷ついたりしていたが、ミセスはそういう言い回しをするのが普通なんだと理解して、数をこなしていくと、慣れてきて普通に会話ができるようになった。今となっては全く苦手意識なく、どんなに強烈なお客さんでも仲良くなれる。むしろ強烈なお客さんの方が自分の顧客さんになりやすい。

今までの展示会では主に知り合いや、うちの顧客さん相手にやっていたが、こんなにもトラフィックがある(人通りが多い)場所でやったのは初めてで、不特定多数の方に
見ていただくという経験は初めてだったので、貴重な経験となった。

2015年4月19日

ビッグサイトの巨大展示会出展

2015年4月1日

これまでに個人での展示会を3回ほどやっていたが、合同展に出してみようということで、いろいろ探したが、やはり費用が異常に高い。
他のブランドと違って金持ちの家の人ではないので、自分の商品を売って、それで回してきた完全なる叩き上げである自分にとっては、出店費用は40万も払うなんてバカバカしいにもほどがあるという感じだった。

そして自分が働いていた小さなブランドも、展示会をやっても全然売れてないのを経験していたので、これだけの認知度で、集客力なら40万円じゃあ赤字だというのは分かりきっていた。そんな中見つけたのが、東京ビッグサイトで開催されるファッションEXPOである。正直ダサい感じだろうからあまり気が進まなかったが、やるしかないと思い、新作のスワッチ作りなど、入念に行なった。
この超大規模な展示会では主に企業ブランドや、海外の企業の出店が多いのだが、デザイナーズゲートという新人ブランド向けの低価格なブースがあり、そこに出展させていただいた。
結論から言うと大成功した。どのようにかというと、日経新聞電子版の映像では会場中で500ブランドある中でうちだけが取り上げられた。取材されて、そのあと映像をとられた。他には産経新聞にもデザイナーズゲート内でうちだけが取材され、ファッションジャーナリストの記事にも取り上げられ、一番の収穫というか、今につながるきっかけとなったのが、百貨店バイヤーからの出店依頼だった。忘れもしない、最初のひとり、静岡松坂屋の矢島さんである。
脱線→
矢島さんは今でも交流があり、その後も沢山の店舗を紹介してくれたり、うちのブランドの商品も買ってくれたりしている。
最初のコレクションに出した、グラデーションコートも今回の展示会にも出していて、それに食いついて声をかけてくれたのだ。
やはり、「いいものはいい」のだ。アートもそうだが、作品の持つ力はすごい。もちろん、作る人の感性もすごいのだが、作品はひとりの人格を持っているような気がする。それを生み出すのが作家であり、デザイナーである。だから時より、自分自身より頼りになると思う作品、作品そのものに感謝するような作品が生まれる。
自分が生み出したんだけど、自分でも信じられないというか、よくSFの世界で、博士がAIの人型ロボットを作ってそれに学ばされることが多いというのと似ている気がする。

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他にも展示会での結果としては、他の百貨店にも声をかけていただいたことだ。そして、隣のブースに出していた方々と繋がれたこと、隣のブースの方々に梅田阪急の担当の林さんを紹介していただいたこと。林さんはパリでもご飯するほど仲良くしていただいている。今でも阪急では毎年年間3,4回ポップアップショップを開催させていただいている。
他にも、個人のお客様に数名受注していただいたこと、ここで初めてセレクトショップのバイヤーさんに受注していただいたことなど、予想を遥かに超える成功を収めた。

2014年10月17日

日本に帰って初めての撮影

そしてこれらのコレクションをスタジオで撮影した。ロンドンの時のファーストコレクションを撮影してくれたKentaroさんに撮ってもらった。

日本での撮影は初めてで、スタジオを探すと、とんでもなく利用料が高く、他のブランドはこれにこんなにお金を払って、どうやって利益を出しているんだろう?と不思議になったものだ。結局、お金持ちの家のデザイナーが多いのはそういうことだというのが後で分かった。自分みたいにお金がないのに工夫次第でやっていくデザイナーで続く人なんてほとんどいない。

OZスタジオという、壁の退廃的な雰囲気は他のもっともっと高い料金のスタジオのどこよりも良かったので、一番安いのに一番いい所を見つけたのだ。

買い物の仕方については別の記事で紹介することにするが、「安いもの」を探しているのではなく、「クオリティの割に安いもの」を探すようにしている。浮いたお金は作品作りに投入して、お客様に還元したいと思っている。

話は戻って、スタジオを見つけたら次にやるのがモデル探し。これが非常に大変。というか、高すぎる。1日お願いして一人10万円以上する。もちろんパリコレとか出ている外人モデルだからなのだけど。

日本人モデルでも同じくらいするから不思議だ。

それで、当然始めたばかりのうちのブランドにそんなお金はないのでどうしたかというと、当時のアトリエが高田馬場にあったのだが、意外にも外人さんを道端で見つける事が多かった。そこでなぜだか調べてみたところ、日本語学校が多いからと分かった。そして電話で「御社の学生さんにモデルをやってもらえるように頼んでもいいでしょうか?」と聞いてみると答えはNoだった。「何かあっても責任取れないから」だと。このセリフはものすごくよく聞く笑

そこで、直接語学学校の前に行って校舎から出てくる学生たちを眺めてみると、意外にも結構イケメンが沢山いた。そしてスタイルもモデル級の人がいて、意外にも、一回スカウティングをしただけで見つかってしまった。

メンズモデルはその時に見つけたハンプスというスウェーデンの人で、その後も仲良くしてくれている。レディスモデルはその時見つけた人はNGになり、急遽渋谷駅周辺で探すことにした。すると案外一日で見つかった。

二人とも完全にモデルとしては初めての仕事だった。しかし、今振り返ってみると、素人だからこそこちらのやりたいことに忠実にできたんじゃないかという考えもある。しかし、それからもう7,8シーズンくらいは一回10万するモデルに頼んでいる。この常識も疑ってみた方がいいかもしれない。

自分はもともとアパレルにいたから、やっぱり、業界の常識というのが染みついてしまっている。現在、販売員を探しているが、やはり、販売員の常識にとらわれているなら未経験の方限定にした方がいいのだろうか、悩ましいところだ。

話は戻って、雨のテーマに基づいて、雨に当たっているようなポーズをしたりなど、工夫を凝らした。このコレクションは自分にとっては印象的なものとなった。

 

2014年10月16日

初めての墨染めとろうけつ染めのコレクション

2014年10月

6、7月にブランディングを掘り下げて、8、9月に秋冬の生産を終えて、次の春夏コレクションの製作をしていたのが10月くらいだった。

ブランドは始めたばかりで、コレクションの時期が遅れてしまっていた。

この次のコレクションから通常のペースに合わせられた。

墨染めをする、ろうけつ染めをする、日本古来の美意識を表現するブランド、ということは決まっている、さて、どのようなコレクション展開にしていくか、どんなテーマで毎シーズンやっていくか、どんな見せ方をしていくか、それを考える段階になった。

ロンドン時代から10年計画、10シーズン(アパレルでは春夏一回と秋冬一回で年に2シーズンあるので10シーズンは5年間)計画をしていた。

色々なアイディアを出した。10シーズンで完結するストーリー仕立てのコレクションとか、毎シーズンアート作品を作り、それを落とし込んだコレクションとか

今回考えたのは漢字一文字で毎回のコレクションをやっていこうというアイディア。のちにIROFUSIや会社名のKESIKIなどを見つけるために古語辞典を使うのだが、この時も、古語辞典などから素敵な言葉で漢字一文字のものをありったけ探してメモした。

日本古来の美意識とは、全ては自然からきているものだということを学んでいたので、漢字も自然にまつわるものにしていた。

自然にまつわる話でここで関係ない話をここで挟みたいのだが、ロンドン滞在中にヨーロッパ一周の旅をした。その間にスペインのバルセロナに行ったとき、やはり観に行ったのはガウディ建築だった。

スペインに行く前から、ガウディ建築は好きだったが、現地で見てみると想像を遥かに超えるものがあった。そもそも、事前に調べられる範囲では情報量が圧倒的に少ない。特に細部のディティールなど、実際に見ないと分からない。全部英語の案内板だが、頑張って読んで何とか理解しようとした。

自分がガウディ建築が何よりも好きなのは、唯一無二の、自然からインスパイアされて、自然こそが何よりも美しい、だからそれを表現するという考え方に非常に共感しているからである。もちろん、見た目としての美しさも、圧倒的に世界一だ。

他の記事でも書いたが、誰が何を観るかで、人それぞれまったく感じる事が違う。それは育った国の文化、環境が大きく影響するからだ。

自分は退廃的なもの、古びたものが好きなのだが、それは結局、侘び寂びの美意識から来ている。世界中どこを周っても、自分は生粋の日本人で、日本的なアイデンティティを持っているということが気付かされる。

ガウディ建築からも、西洋の人間至上主義的な感じではなく、自然との調和を感じ取れるのがとても愛おしい所だ。

話を戻すと、コレクションのテーマは漢字一文字で自然にまつわるものにすることにした。

現在まで10シーズンそのやり方を貫いてやってきた。逆順だがこのような具合だ。

2019 S/S 葎 – mugura –

2018 A/W 縒 – fuzoro –

2018 S/S 韻 -hibiki-

2017 A/W 炬 -kagari-

2017 S/S 紗 -usuginu-

2016 A/W 荊 -ibara-

2016 S/S 朧 -oboro-

2015 A/W 凩 -kogarashi-

2015 S/S 雨 -ame-

2014 A/W 柵 -shigarami-

そして今回の話は2回目のコレクション「雨 -ame-」

自分は雨は嫌いではなかった。これは東京に来て、はたまた、ロンドンに行って変わってしまうのだが、自分の地元は晴天率が日本一の地域なので、雨の日が少なかったから、雨が割りと好きだったのかもしれない。

そして今となってはこの監督の名前を出すとただのミーハー扱いされてしまうのがつらい所だが、自分は学生時代、12年前、2008年だったと思うが、新海誠監督の「秒速5センチメートル」を見てそれから自分の中で価値観が変わった。その新海誠監督が出した「言の葉の庭」では雨の日が舞台になっていた。それを観てからというもの、雨の日がより好きになった。

そのころに知ったことなのだが、新海誠は自分と同じ長野県野沢北高校出身だと知って運命というものを勝手に感じてしまった。

ちなみに地元自慢でいうと同じ野沢北高校出身者にはLINE社長の出澤さん、宇宙飛行士の油井さん、その他オリンピックメダリストや、政治家、俳優などを輩出してるらしい。

最初のコレクションテーマ「雨 -ame-」では古語辞典から雨にまつわる古語を探してみると沢山あった。日本人はやはり雨にも情緒深さを感じるのだ。

涙雨、翠雨、雨晴、雨日和、雨隠、傘雨(自分で作った笑)などの雨の名前を作品に落とし込んだコレクションになった。ちなみにこれらのシリーズは半分くらいは定番として今でも店頭に出している。

2014年9月9日

2014年9月、アシスタントRei現る

ロンドン時代から約一年間、デザイン、パターン、その他業務も含めて、一人でやってきた、次のコレクションに入る前に2014AWの生産をしているころ、アシスタントとして突如現れたのがReiである。

バンタン時代のインターン仲間でREIJI HARIMOTOという、めちゃくちゃこだわってハイクオリティのブランドをやっている、レイジ君に、ミュージシャンの衣装の製作を手伝ってほしいということで手伝いに行った。

デザイナーが他のデザイナーの仕事を手伝うなんて滅多にないことだ。そもそもデザイナーになったからには下働きはしないし、それ以外今2020年12月現在に至るまでこの時以外一度も下働きはしたことがない。

このレイジ君の元でアシスタントをしていたNAMIさんに「俺もアシスタント欲しいなー」ともらしたら、「友達でアパレルで働きたいという人がいましたよ!聞いてみます!」と言ってくれ、後日早速アトリエに来てもらうことになった。それが2014/9/9である。スーパームーンだったとReiのお母さんは言っていたらしい。Reiのお母さんはこの初日の前から、「やなぎさわれいっていいわねえ」と会ってもないのに言っていたらしい。笑 でもこの予感は的中し、Reiは現在の妻であり、現在8か月の子供の母である。

9月9日最初に借りていたアトリエ(高田馬場の、二階が13畳のアトリエとして使っていたなかなかの掘り出し物件。)に初めてReiが来た。その日は面接というか、ブランドの話、自分の話、ビジョンの話、などをして意気投合し、翌日から来てもらうことになった。実はちょうど前日前職を辞めたばかりだという。

恐らくこの日までに辞めるつもりだったのだろう。彼女は前に勤めたアパレルの会社も唯一入りたいと思った会社で、その会社に受かるために何着もその服を買い、その会社的なポートフォリオを作り、絶対に受かるというつもりでその一社のみ面接を受けて、1000倍くらいの倍率で見事受かってしまったというほど、願ったものは必ず叶う、実現してしまうという不思議な能力があるので、もしかしたらNAMIさんから話が言った時点からReiの中ではうちのブランドに入って大きくするために貢献するという未来を見ていたのかもしれない。

彼女は名門大学に通いながら3,4年生の時に専門学校に夜間で通っていた程度なので、縫製も商品レベルの縫い方を知らなかったので、彼女にとってアトリエ作業では毎日毎日マンツーマンでの授業となった。

パターンは僕がやっていたので教えることはなかったが、綺麗にトレースするということを教えるのはとても難しかった。彼女はスピード重視派だったのだ。クオリティ命で生きてきた自分にとってはいろいろとカルチャーショックはあったが、自分の今までの服以外の仕事においては効率化重視でずっとやってきたので共感できる部分もあった。自分は職人気質で、かつアーティスト気質で、かつ経営者なので、要求水準は高かった。

3,4年も経ってから彼女の本来の金銭感覚というものを知ることになるので、この時は稼いだ金は全て自分たちの生活費で、そんなに贅沢のできない環境で頑張っていたということは、それだけで彼女にとっては大きな努力だったのだと後から気づく事になる。感謝してもしきれない。

 

 

2014年7月16日

最初のコレクションを終えて、次のコレクションの前に、ブランディング

最初のコレクション、2014AW (AWとは秋autumn、冬winterの略です)のコレクション製作、展示会を終えて、次のコレクションを考えたときに、もっともっと深くブランディングをしようと思いました。

最初のコレクションはロンドンに滞在中に作ったので、できることが限られていました。限られた生地の中から選んで

買って来て、限られた生地の組み合わせと、デザインの工夫、パターンの工夫で表現したいものを作りました。

■元々加工された服が好きで、高校生の時、古着のリメイクから僕の服作りは始まりました。その話はまた今度します。

加工された服が好きで、染め、シワ加工、コーティング、一点ものの商品などなど、やってみたいことはありましたが、ロンドン時代にはフラットシェア(イギリスでは一人暮らしの人は、一つの物件に複数部屋があり、共同でバストイレなどを使い、シェアするスタイルが一般的です。)では加工場を作って染めをしたりするようなことはできなかったので、日本に帰ってきたので、挑戦したいという思いがありました。

そもそも、ロンドンにいるときにしていた自分の中でのブランディングは、まずどんなブランドにしたいかというところから考えました。当然、今の時代なので、(当時は8年前ですが)ファストファッションがすごいシェアを取っていたので、自分も含め、世の中の人たちほとんどが数着は安い服を持っている、定期的に買っているという状況。

今まで高い服しか買っていなかった人達も、コートはハイブランドだけど、インナーはユニクロ。みたいな着方になってきていて、H&MやZARAも普通にオシャレな服を出していて、正直、お金のなかった僕は、ユリウスの服と、その他はH&M(よく探すとカッコイイ服が掘り出し物でありました)のように着てしまっていました。

ハイブランドとファストファッションなどの低価格の二極化、中間層は淘汰されていくということは感じていました。

当然、低価格を実現するにはものすごい規模で大成功する以外方法ないので選択の余地もなく、やりたくもありませんでした。かといってラグジュアリーブランド的なのを目指すつもりもありませんでした。(ラグジュアリーブランドになれるなんてとてつもなくすごいことですが。)

とにかく、ファストファッションによってこんなにもファッションブランドやお店が無くなってきている状況で、どうやったら生き残っていけるのかを考えました。好きなことを仕事にしても生き残っていけないなら意味がないと思っていました。

■生き残っていくためには大手には絶対できない、これから先も真似されないことでしか方法がないと思いました。

今現在は独自性があっても、再現性のあるもの、大手でもできてしまうであろう物は将来がないと思いました。

そこで考えたのが、大手には絶対できないことは 「手作業のもの、一点物」であると。よく考えたら当たり前のことなのですが、ここを目指しているコレクションブランドは一つも知らなかったというのと、自分の特性的に、手作業のものはあっていると思ったのでそう考え付きました。

手作業が入ることが絶対条件

そしてどんなブランドにしたいかということですが、自分はイギリスのロックやパンク的なイメージが好きで、ロンドンに行った部分があったのですが、同時に、そこに退廃性を見出していたのですが、それが日本的な美意識、侘び寂びの美意識から来てるのではないかと気づいたところが現在のIROFUSIに繋がっています。

世界を周って誰が何を見ても、感じる事、目に入るもの、何がどういいと思うかは人それぞれで、どんな文化の環境で育ったかで違うと思います。それで、僕としては、世界の廃墟や、アンティーク家具や、お城、ヨーロッパの数百年も使われ続けている建物と煉瓦の道にも侘び寂びを見出してしまっていることに気づきました。

世界のどこに行っても人のアイデンティティというのは変わらず、自分は心底、日本人なんだと思いました。

海外に行ったことで逆に日本の良さに気づくというのは面白いですね。Outside the boxです。

■日本古来の美意識を表現するブランド、手作業で作る ということは決まっていた。

話は戻りますが、2014年の6,7,8月はずっとブランディングのことを考えていました。日本の美意識に関する本を沢山読んだりして、ノートにもたくさんアイディアを書き出していました。

陶芸には貫入というものがあり、ひび割れのことです。これは偶発的に入るものであり、人がコントロールできることではありません。ほかにも建物が朽ちて来たり、物に年季が入るいうのも自然な変化です。こういったものを服で表現できる方法はないかと探していてみつけたのが「ろうけつ染め」でした。ろうそくのロウを鍋で溶かして、筆につけて、布に描きます。それを染料につけるときにカチカチに固まったロウの部分が偶発的にひび割れます。これが美しいのです。見つけたときにビビッ!っときました。これを使いたい、こんなにもぴったりなものは他にないと思いました。しかし、ろうけつ染めのやり方を調べるととてつもなく時間のかかる、特殊な設備も必要な方法でした。

これは市販の商品にろうけつ染めがないのは納得できると思いましたが、同時に、効率的な方法を思いついていたので実際にやってみるのが楽しみでした。

■ろう墨染めの誕生

次に、何で染めるかです。黒い服が好きで、最初のコレクションもほとんど黒ばかりのコレクションになりましたが、黒く染められる染料を調べると、化学染料しかなく、自分で黒く染めるのはとても大変そうだということがわかったのと、ろうけつ染めは白なので、黒地に白い柄じゃあコントラストがすごくてキツいなと想像しました。

そこで見つけたのが墨です。墨は手軽に手に入るので染めてみると、仕上がりを見てこれも衝撃が走りました。

これもろうけつ染め同様、偶発的にムラができているのです。そこには僕の好きな水墨画のような雰囲気が漂っていました。「この墨染めとろうけつ染めを組み合わせたら大変なことになるんじゃないか??」ととんでもないワクワク感がありました。それは例えるならば、アインシュタインが相対性理論をE=mc2と導き出した時のような感動でしょう(次元が違いすぎてアインシュタインに失礼ですが笑)

実際にロウやコンロや鍋、筆などを買い、ろうけつ染めのオリジナルの効率的な作業場も作り、実際にろうけつ染めをしてみました。やけども少ししましたが、長年飲食店でやけどしそうなほど熱い洗浄機から出たお皿を扱っていたし、揚げ物で何度もやけどしていたので、全く気に留まりませんでした。

しかし問題は染めの方でした。最初、2014AWのグラデーションコートでグラデーション染めをしていましたが、そのときはお湯の必要があったので、金属バケツをIHコンロに載せてベランダで染めていました。

まずは同じようにして墨でもやってみたのです。しかし、せっかくろうけつした柄が熱で取れてしまい、最初は温度計を付けて何℃までならロウが溶けないかなど考えて、何度もやり直しました。

しかし、ロウが溶けなかったとしてもそのあとの洗いの工程で防染した部分に染み込んでしまったり、墨が薄くなりすぎたりと、かなり苦戦しました。塩を入れたり、お酢を入れたりなど、試せることは全て試しました。

ろう墨染めの実質的な完成までには約一年を費やしました。何度も心が折れそうになりましたが、こんなに大変なら誰かが思いついても諦めるだろうから真似されたり、同じことをする人は少ないんじゃないかなと思い、将来の成功のイメージだけにしがみついて、何とか自分を叩き起こしていました。

墨というものはもちろん中国から伝わってきたもので、仏教と一緒に、禅と一緒に伝わってきたものであり、禅というのはすなわち侘び寂びであるので、墨を使うことそのものが日本古来の美意識を表現できると考えました。

禅僧は昔、墨染めの服を着ていたと言います。

江戸時代には奢侈禁止令(徳川禁令)という色のあるものを身に着ける事を禁止する例が出され、その中で、「四十八茶百鼠」というような地味な色の中でも色々な色を出す、日本独自のオシャレが発展しましたが、その絶妙な色味こそ綺麗だと思い、百種類の鼠色を表現するブランドなんて他にないんじゃないかなと思い、ワクワクしました。

 

2014年6月1日

初の大阪展、大阪のセレクトショップにて

最初の展示会が2015年5月、その1か月後に、バンタン時代の先輩のalgorithmデザイナーのミクさんにご紹介いただき、大阪のセレクトショップにて展示会をさせていただきました。

リックオウエンスなど、自分の好きな感じの物も置いてあり、楽しいお店でした。

お店の中で一部のラックを借りての展示会で、大阪近辺にいる知人には声をかけましたが、基本的に来店されるのはそのお店のお客さんでした。お店のブログで紹介してもらってか、うちの服を気に入っていただける方が沢山いらっしゃり、この時に完全に初めて知り合いじゃない、お客様を接客して、販売した経験でした。今振り返ると案外、最初からできてました。おそらく、同世代の方を相手には販売には全然抵抗なかったんでしょうね。

百貨店が始まってミセスの方々を相手にしたときに、今まで経験がなかったからか、かなり苦手意識がありました。

今となってはミセスの顧客の方と5時間も話してしまうくらい、楽しんでやっています。

この大阪展にて、フリーの方にもこんなに受け入れてもらえるんだ!とかなり嬉しかったのを覚えています。

自分のデザインに自信を持てた機会でした。

この時に香川からいらしていた現在TurigonoというブランドをされているKeinaさんはその後も展示会の度に何度も東京にいらしていただいたり、毎回うちの服を購入してくださる大事な顧客様です。

本当にありがたい限りです。

自分は、この時は大阪には観光で一回行ったことがあるだけだったので、自分の立ち上げたブランドで出張に来れる事自体が嬉しかったです。

ブランド立ち上げと言っても、親から借りたお金が少しあるだけで、この前の展示会の売り上げもありましたが、半年生き延びることを考えると非常に貧しいものでしたので、大阪の宿も一番安いところから探していましたが、動物園駅あたりにある、エアコンのない、2畳くらいしかない、畳の部屋に泊まっていました。今思うと、ものすごい暑かったし、安くてもコスパはあまり良くなかったと思います。笑

最初の展示会で作ったスワッチ(商品写真やハンガーイラストが一覧になって、素材、値段、サイズなどが書かれた冊子)を改良しようと思って、撮影しなおしたりして、大阪に行く出発ギリギリまでやって、大阪のホテルに着てから、パソコンでスワッチデータを編集し、コンビニで印刷することにしました。(この時まではキンコーズでしか出力したことありませんでしたが、初めてやってみました。)とてもきれいに印刷でき、ホチキスもコンビニで買って、資料を沢山作りました。

実はこの展示会の3日前から大阪に着くようにして、いきなりですが、スーツケースにサンプルを入れてセレクトショップの営業ツアーを考えていました。今考えてもびくびくするので、当時は相当勇気を振り絞ったことだと思います。

正直言うと、それらのセレクトショップで取り扱ってもらえるクオリティにはなってないと思っていました。

でも、良いセレクトショップがある大阪にせっかくこれたんだから、やるしかないと思ってやりました。

正直、営業に行ってもものすごく冷たくされて毎回心が折れてました。でもそういうものだろうと思って踏ん張りました。The Rという素敵なセレクトショップに行くとサンプルを出させてくれて見てくれました。

お客様にもよかったら見てくださいと言ってまで下さり、騎馬さんは、自分がデザイナーだったら同じようにやると思うと言って下さり、実はその一言はその後の営業活動にも支えになりました。肯定されるって大事ですね。

セレクトショップのバイヤーさん達は揃いも揃って皆さん気難しい方が多いです。それもそのはずです。

こだわりがあるから自分のお店を持っているわけで、デザイナーと同じです。

今となっては営業の仕方ももう少し工夫した方が良かったと思いますが、当時は資金もなく、必死にもがいてました。

普通はブランドを始めるとき多額の借金をして始めるケースが多いです。飲食店と同じですね。しかし、僕の考えとしては、デザイン、パターン、縫製ができれば、基本的には生地代だけでブランドは始められると思っていました。

→→→ここからまた長くなってしまったので、別の記事にします。

2014年5月11日

帰国後一か月で初の展示会開催

ロンドンから帰り、一か月後に展示会を設定しました。

展示会をやるには作品が少なすぎると感じていたので、日程を先に決めてしまい、連日徹夜のような追い込みをしながら、新居を探し、引っ越しをして新しいアトリエでまた作業再開という感じでした。

最初は集客の方法もなく、自分の知り合いを沢山呼びました。自分がブランドを始めたということで、さもなくば何年も連絡を取ることはなかったであろう友達とも会うことができ、何か行動をするということは本当に大変だけど、そこには無限の可能性が広がっているというか、無限の可能性の分岐点に立つことができるんだなと感じました。

自分の作った作品を沢山の人達に着てもらい、喜んでもらい、注文をいただき、それまでの頑張りが報われました。ファッション業界では当たり前の、展示会は半年以上前にやる、とどくのが半年以上かかるというのは今思うと自分の知人には関係ない話で、申し訳なかったなと思う部分がありました。

ファッション業界のサイクルを無視してもっと早く送ることもできました。まあ、真夏にウールのコート届いても着ないでしょという感じでもありますが。

注文をいただいてから、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、一生懸命縫っていたのが懐かしいです。

最初のころは全て自分で縫製していました。現在は生産数が多すぎるので縫製に関しては簡単なものしか自分で縫うことができません。

この展示会がブランド、事業として始めて社会経済と繋がった機会でした。

2014年4月1日

ロンドン留学中に制作した一着の服がブランドの始まり

僕が2013年、ロンドン留学中に作った一着がきっかけでした。

いつか自分のブランドを持つという目標はありましたが、それがこの後すぐになるとは、全く予想していませんでした。

ロンドンへは服作りの道具一式と、この生地だけ持っていきました。

実はこの生地は、学生時代にコンテストで入賞したときなどに使った生地を売っていたお店で見つけた生地でした。

ちなみに学生時代には、本格的なテーラー仕立てで、奇抜なデザインのスーツルックを作った作品の時に、先生に最高級の生地は何かと訪ねて、カシミヤドスキンという生地が最高級と聞き、日暮里繊維街で30店舗ほど聞いて回ってようやく見つけた生地でした。他の全てのお店の店員さんから、日暮里にカシミヤドスキンが売っているわけがないと言われましたが、諦めない力は裏切りませんでした。

この生地を売っていたお店で、見つけたのがこのグラデーションの綺麗な生地でした。

惚れるほどの生地はなかなかないのですが、運命的な出会いでした。

毎日のように描いていたデザインの中からこの生地に合わせたいものが見つかったので、パターンを引いて仮縫いをして、完成パターンにして裁断となった時、いくらやってもうまくパーツが入らなかったので、衿にも色が入るような配置にしたらギリギリ、全くハギレも残らずに裁断できました。

なにかすごいものができると感じるときのワクワク感というか、ソワソワ感が裁断するときからありました。

一気に縫い上げて自分で着てみたら、ものすごい気分が上がりました。そして即、フラットメイト(シェアハウス内の住民)達に見せて着てもらいました。

この一着が完成した時点が自分としてのブランドのスタートだったと思います。

一人の熱狂が多くの熱狂になると言いますが、始まりは自分自身の熱狂でした。

やはりこのコートは最初の展示会の目玉になり、一番人気でした。

 

このコートを皮切りに、ウールにフィルムを貼ってあり、着ていくうちにボロボロになり風合いが出てくる生地を使ったジャケットや、レース生地にカットソー生地に穴を空けたものを重ねたデザインなど、とにかく工夫をして、オシャレなものを作ろうと思っていました。

ロンドンで出会った全身真っ黒な服装で、自分のファッションと一番趣味が合うフォトグラファーのKentaroさんに、雨の日の廃墟の教会で撮っていただいたのが、最初のコレクションでした。

後にも先にもあのロケーションが一番素敵な場所となりました。

ヘアメイクは同じフラットメイトのKeikoさんにお願いし、6年後の現在もこの二人にお願いしています。

IROFUSIの素敵な写真があるのはこのお二人のお陰です。

そしてその後に作品を作り足してロンドンから帰国の三日前にスタジオ撮影をしました。

ロンドン留学中にバックパッカーのようにヨーロッパ一周したのですが、その弾丸トラベルがその後の自分の人生の大きな自信となりました。

その旅行の後にこのコレクション作りを行ったのでエネルギーがこもったのだと思います。

ロンドン留学中に、自分が退廃的なものが好きなのは、日本的な美意識なんじゃないかと思ったときに、自分の中で点と点が線で繋がったというか、自分の中に太い幹が生えたというような感じがしました。

海外の国々を周る毎に日本の素晴らしさを、日本が与えた影響を感じる事ができたりしたのが、その幹をより強固なものにしたと思います。

 

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